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VOL21 : 「居住」という視点からの建築史研究――元朝宮廷空間を素材として

准教授 福田 美穂

はじめに
  現在のライフスタイルは、どのようにしてできあがってきたのでしょうか。これは、じつはなかなか難しい問題です。住生活の歴史を見てみると、多くが上層の人々の住まい方や決まり事などを起源とし、そのほか様々な要素が複雑に関連し合って、今見る住生活様式ができあがってきた、ということは言えます。ある時代の居住スタイルが、どういう要因でどう変ったかを考える、ということが、居住文化を歴史的に研究する、ということだと思います。ただ漠然と「伝統的」だと思われている生活を守ろうとするのではなく、現在という時点に生きているわたしたちが自覚的に新たな住まい方を創造していくことが大切でしょう。その際に、居住文化の歴史を知っていることは大いに参考になると思います。

  古代の日本は、中国文化を受容して、平城京、平安京などの都城を築き、都の宮殿や寺院建築も中国建築の影響下に造営されたと考えられています。ところが、中国の都城や宮廷の建築自体は、先行研究によって一定の成果があるものの、いかなる設計思想に依ったのか、また皇帝の生活空間として重要である宮殿や庭園の構成及びそこでの過ごし方はどのようなものであったのかなど、多くの重要な課題が残されています。

  そこで、次のような二つの研究の視点が設定できると思われます。ひとつは漢以外の文化を持つ人々がいかに漢文化を受容するかという視点、もうひとつは漢文化自体に着目し、その変遷をできる限り明らかにすることで、漢文化の変化しない点、変化した点を見極めるという視点です。この二つの視点からの研究を相互に照らし合わせることによって、初めて、ある文化と文化との影響関係をより掘り下げて考えることができるようになると考えています。

  前者の視点の研究として、13世紀のモンゴル帝国の中国における首都である大都(北京の前身)を素材としてとりあげます。中国宮殿を模倣したとされてきた大都宮廷ですが、資料を調べていくと、どうも建築空間の構成や使い方はモンゴルの生活習慣に基づいていたらしいことがわかって来ました。

  後者の視点の研究がまだ途上でありますので、今回は一定程度研究が進んでいる大都宮殿についての考察を述べます。


1.大都における宮殿と庭園の構成
  以前には、13世紀から14世紀にかけて大体現在の中国の地を統治したモンゴル帝国(中国では元朝と言う)の宮殿は、中国の宮殿を模倣しただけだとされることが多かったのですが、じつはモンゴル人の営んだ宮殿建築が、どのように造営されていったのか、どう使用されたか、について具体的かつ詳細な研究がされないまま、こうした模倣論を結論としてきたという状況がありました。そこで、できるかぎり大都宮殿に関する資料を蒐集整理してみると、以下の点がわかってきました。

 
図1 大都城略図
ひとつは、いつも建築と庭園とがセットになって造営されていることです(図1)。大都の皇族専用の場所である皇城の中で、もっとも早くに造営されたのは、瓊華島という島にある宮殿建築群で、これは個々の建物の造りを見ると、庭園建築群と見てよいものです。瓊華島の造営に着手した際には、まだここに首都を建設するとは決まってなかったようです。こうした早い段階で、中国を押さえる拠点として、まずは庭園の建物から着手したことは、注意すべきことだと考えられます。つぎに、正式にこの地に首都を建設することになり、瓊華島の東側に宮城を造営しました。また、おそらくは宮城造営と同じ頃、宮城の北側に御苑を造りました。つまり、宮城はその西側と北側に庭園空間を伴っていたことになります。宮城を造ったあと、東宮の造営を開始します。この東宮は東西二つの区域からなり、東側を隆福宮、西側を隆福宮西御苑と言いました。そして、最後に興聖宮を造営します。ここは、だいたい北半分に相当する部分が庭園区域となっていました。このように見てくると、宮殿計画はいつも庭園区域を伴っており、しかもそれは宮殿建築区域の西側もしくは北側にあったことがわかります。こうした宮殿建築は、その建物規模の記述から、中国式の木造主体の建物であったと思われます。


2.宮廷におけるモンゴル人のテント
南宋の絵画に描かれた遊牧民のテント
  モンゴル人は、上述したように中国式の建物を宮殿として造営していました。ところが、文献資料を調べてみると、モンゴル人は中国を統治するようになってもテントを使う習慣を保持していたことがわかります。たとえば、『草木子』という書物には、元の皇帝は代々即位すると立派なきらびやかなテントを新調していた、という意味のことが書いてあります。また、元朝の歴史書である『元史』には、皇帝には四人の正夫人があり、それぞれの夫人が自分のテントを持っていたことが書かれています。ちなみに、元の時代にヨーロッパからはるばるやってきたとされるマルコ・ポーロもチンギス・ハーンには四人の夫人がいる、と述べています(『東方見聞録』)。

  テントは移動可能なものであるため、上に述べた記述だけではどこでテントを使ったのか確定できませんが、別の記録によると、大都の皇城内でもテントを建てて使用していたことがわかります。たとえば、『祕書監志』、これはおもに皇帝との謁見の際、臣下の奏上内容や、皇帝の命令を集めた書物ですが、このなかに「内裏のテントの中で」皇帝に謁見した、という記述があります。このほか、特殊な例として、皇帝崩御のおりには、テントで葬式をすることが『元史』に見えており、実際チンギス・ハーンが崩御した際、テントで葬礼を行ったことが当時の文人によって描写されています(『秋澗先生大全文集』)。また、大宴会を皇城内で行ったという記事もあり(『析津志』)、モンゴル人は中国式建築群の立つ皇城の中であっても、ずっとテントを使うという習慣を持ち続けていたことがわかります。


3.テントの配置法と大都宮殿の空間構成および建築の使い方
  ところで、モンゴル人はテントをどのように配置したのでしょうか。これについては、いくらか研究があります。ルブルクという宣教師が憲宗皇帝(チンギス・ハーンの兄)の宮廷に行った時の旅行記がありますが、それを分析した研究によると、憲宗皇帝のテントは以下のようであっただろう、と推測しています(宇野伸浩氏)。すなわち、憲宗皇帝には四つの大テントと呼ばれるものがあり、第一夫人第一テント、以下順に第四夫人までが各自のテントを守っていて、基本的に憲宗と四人の夫人は一緒に移動しており、夏営地などに逗留する場合、この四大テントは東西に並んでいて、かつ西ほど位が高いテントであり、順に東へいくほど位が下がっていく。また、一番西端には、長男のオルドが置かれていた、ということです。この研究では触れられていませんが、西側を空間的に尊いとする観念は、ルブルクの旅行記の他にも言及があります。たとえば、『析津志』にも四大テントでは西が最も地位が高いと書いています。また、モンゴル人が中国の伝統的な祭祀の一つである南郊の祭祀を行う際に、大きな幕(テントのようなもの)と小さな幕のいずれも西側に配置しますが、それは中国の伝統から言うと逸脱であり、その逸脱の原因は元朝が右と西を尊ぶためだ、と『元史』は言っています。このように、『元史』を編纂した明代初期の中国人が、モンゴル人の西を尊ぶ観念を知っていたこと、そして中国の伝統的祭祀の中に中国の伝統とは異なる部分を見出し、その理由としてモンゴルの西側重視の空間観念を挙げていることは、注目に値すると思います 。

  また、皇帝のテントの北側には、臣下のテントを置いてはいけなかったようです。『元史』には、順帝(元の最後の皇帝)に寵愛されたある臣下について、彼の犯した大罪のひとつに、皇帝のテントの北側に自分のテントを設置して君臣の身分を無視したということが挙げてあります。また、別の書物によれば、緊急事態で皇帝に直接話をする場合には、皇帝のテントの北側から中にいる皇帝に向かって話す、とあります(『元朝秘史』)。つまり、非常時に北から奏上するのに北側に別の人物のテントがあると困るわけで、この『元朝秘史』の記述は、北側にテントを設置していなかったことの傍証と言えるでしょう。

  このように、モンゴル人は西ほど尊いとする観念をもち、テントも東西に並べて西ほど地位が高く、且つ北側を明けておく、というテント配置法を持っていたことが推察できます。この西と北という方角に関して想起されるのは、上述した、宮殿計画が常に庭園区域を伴い、しかも宮殿建築区域の西側もしくは北側にあったことです。これはつまり、次のような推測を可能にさせます。すなわち、大都を造営する際、皇城は皇帝とその一族が占有する空間ですから、西を尊ぶ習慣が反映して、東側にモンゴルではない「漢」文化的な規範による建築を配し、その西側にはより尊い空間として、自分たちの好みの空間=庭園を配置したのではないか、ということです。庭園がなぜ彼らの好みの空間かと言うと、こうした庭園区域で大々的な宴会をした記事が散見するからです。

  また、建築の使い方についても、モンゴル人は中国人とは異なるところがあったことがわかります。たとえば、正殿の使い方です。漢文化の文脈でいうと、正殿で謁見や即位式を挙行するのですが、モンゴルでは、文献を見る限り、正殿以外で謁見することもかなり普遍的だったようですし(『祕書監志』、『析津志』その他)、ある皇帝などは、即位式を皇太子時代の宮殿で行おうとして、臣下に諫められて正殿で行ったものの、即位後も皇太子時代の宮殿をよく使っています。


おわりに
 以上を要約するに、全体の宮殿建築計画は、西側、北側に対するモンゴル人の空間観念が反映したもので、中国の正統的な宮殿建築をなるべく東側に配置して、西側は中国正統的建築とは異なるものを配置していた、と推測できます。また、一棟一棟の建物については、モノとして中国の建築を建てはしたけれども、どのように使うかはモンゴル人の思うようにしており、さらにテントまでも宮廷内で使い続けていて、そもそも中国の正統的な宮殿建築のあり方を厳格に受け継ぐ姿勢とはほど遠いものだったと思われます。大都宮殿とは、漢文化とモンゴル人がもともと持っていた文化とが混在してできあがったものだったのであり、単なる中国宮殿の模倣ではなかったということが以上から言えると考えます。

(2014.09.18)

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